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●アラン・ムーアとフランク・ミラーについてのどうでも良いハナシ。

2010.02.11 Thu

▼瑣末なことに対して、長々と書いてみる日々、つまりいつものタワ言――あるいは「アラン・ムーアとフランク・ミラーについてのどうでも良いハナシ。」などというタイトルで読者の気を引いて下らぬ長文を書き連ねる行為に潜む悪意について:

 こう、昨年末に出した『トワイライト・オブ・ザ・スーパーヒーローズ』の同人誌の原稿を書いてた際に、なんとなく、アラン・ムーアに言及してる日本のサイトを諸々見て回ってたのですわ。

 その1つが下記のブログのエントリでして。

●フランク・ミラーやアラン・ムーアの「作家性」への違和感[The Red Diptych]

※毎度、トラックバックの送り方がイマイチ分かってないのですが、送れてるのかしら。

 で、ですな。

 この記事の主題である「『ウォッチメン』とか『ダークナイト』単品でムーアやミラーを語るな」ってな意見には、大いに同意するのですよ。

 ただ、1箇所、引っかかるくだりがありまして。
 具体的には以下に引用する部分になるのですが。

 だから、フランク・ミラーの『ダークナイト・リターンズ』や、アラン・ムーアの『ウォッチメン』が、いきなり単独の作品として紹介されることはおかしいのだ。彼らは、最初から作家的自由を保証されていたわけではない。彼らは、「自由」などどこにも存在しない場所で、意識的に作家としての自由を勝ち取った。そして、そのことを理解するためには、ミラーなら『デアデヴィル』、ムーアなら『スワンプシング』を読む必要がある。彼らはいきなりオリジナルな独立作品を手がけたわけではなく、月刊二十数ページのコミック・ブックでの連載という、極めて不自由な環境を通過してきたのだ。

 その、オイラ的に引っかかる部分は、ですな。

 まず「月刊二十数ページのコミック・ブックでの連載」は、本当に「『自由』などどこにも存在しない場所」なのか? という点。

 それと、ムーアとミラーはそれぞれの出世作『スワンプシング』と『デアデビル』において作家性を獲得するために戦っていたのか? という点。


 前者は、その、アメリカのヒーローものコミックブックのオンゴーイング・シリーズを、こう、割りと恒常的に読んでらっしゃる人なら、「“『自由』などどこにも存在しない”ってほどでもないよね」と、感じるんじゃないかと思う次第ですが、どうでしょか。少なくとも、オイラは、作家に才能がある限りは、自由に作家性を発揮させてもらえる場であると、思います。

 ……つかむしろ、DCコミックスの現行の看板作家、ジェフ・ジョーンズ、グラント・モリソン、ジェームス・ロビンソンや、彼らのフォロワーな作家たちが、作中で好き勝手にやってる──マイナーキャラクターはザクザク殺し、メジャーキャラクターは腕をもいだり、トラウマ与えたりのヒドイ目に会わす──のを見るだに、「編集者はこいつらの創造性をもう少し抑えつけろよ」とか思わないでもないのですが。

 で、上記のように「今」を例にして「コミックブックって作家フリーダムじゃん! 自由だよ!」ってなことを書きますと、読んでる方におかれましては「それは今のことであって、ミラー、ムーアが『デアデビル』と『スワンプシング』を書いた当時は、事情が異なっていたんじゃないの?」ってな、しごく当たり前の反応が、脳裏に浮かんでるのではないかと思います。浮かばない方は、まぁ、今ここで浮かべてみてください。さあ。(強制かよ)

 ですが、個人的には、ミラー、ムーアが彼らの出世作を書いた当時の体勢も、現在に負けず劣らず、というかむしろ当時の方がフリーダムだったのではないかと思っております。


 具体的に例示してきましょうか。

 まず、ミラー。

 彼は1970年代後半にプロの作家(ペンシラー)としてデビューし、ゴールドキー・コミックスなどの当時のメジャーマイナー系の出版社で作品を発表してました。
 やがて1978年、ミラーは『ピーター・パーカー:スペキュタクラー・スパイダーマン』誌の第27~28号(カバーデート・1979/2-3)のアーティストを担当し、マーヴルでのデビューを飾ります。

 で、その後『デアデビル』誌のアーティストだったジーン・コーランがマーヴルを辞して、同誌のアーティストの座が空いたことを知ったミラーは、当時のマーヴルの総編集長ジム・シューターに直訴し、『デアデビル』誌第158号(カバーデート・1979/5)から同誌の新アーティストとなります。

 この総編集長のジム・シューターという人物は、まぁ、一言でいえば「伝説の敏腕編集長」というか(安っぽい表現ですが)。
 こう、若干13歳でDCコミックス社でライターとしてデビューした後、マーヴルに移って編集者兼ライターとして活躍、あっという間に総編集長の位置に上り詰め、当時コミック出版界ナンバー1の位置についていたマーヴルの玉座を盤石なものとした……ってな感じの、立志伝中の人物ですわ。

 ま、敏腕な人だけに同僚や作家との対立も尽きない人で、前述のジーン・コーランがマーヴルを辞した理由ってのも、とどのつまりは編集者時代のシューターと幾度かやりあってたコーランが、シューターの総編集長職就任により「今まで以上に仕事がしづらくなる」と悟って身を引いたためだったりしますが。

 ともかくもミラーがアーティストの座を得ました、この『デアデビル』誌ですが……ブッチャケ当時はマーヴルでも最悪の売り上げを誇り、いつ休刊になってもおかしくない雑誌だったりしました(だからこそミラーのような新人をいきなりメイン・アーティストに起用できたのですが)。

 そんな訳で、当時のマーヴルの営業からは「とっととこの不人気雑誌を休刊させろ」との突き上げがあったそうですが、シューターは「このミラーという新人のアートには見所がある」として、頑として休刊に応じなかったとのことです。泣ける美談ですね(まぁ、後年のインタビューでシューター自身が語ってることなんで、多少の脚色は入ってるでしょうが)。


 やがて、この『デアデビル』誌の担当編集者が代わります。それが、デニス・オニールでした。

 この人、元々は新聞記者でして。新聞にコミックスについてのコラムを幾度か書いてたのを、マーヴルのライター兼編集者だったロイ・トーマスに見いだされ、マーヴルでライターとしてデビュー、とかいう風変わりな経緯で作家になった人であります。

 で、その後オニールは、トーマスがDCに移ったために、あまりマーヴルから仕事をもらえなくなり、三流出版社として名高いチャールトン・コミックス社をメインに活動するようになりまして。
 やがてチャールトンの名編集者、ディック・ジョルダーノがDCコミックス社に引き抜かれたのを期にDCで仕事を開始し、1970年からライターを担当した『グリーンランタン』誌(正確な誌名は『グリーンランタン コ・スターリング グリーンアロー』。長いので略す)では、前職での経験を生かし、人口増加や人種差別、公害、若者に蔓延するヘロインの害などの社会問題を取り扱った一連の作品群を送り出して、一躍ライターとしての名を高からしめました。
 ほんでもって、1980年初頭にマーヴルに戻ったオニールは、アル・ミルグロムの後任として『デアデビル』誌の担当編集者となりまして(第163号:1980/3から)。

 さて、当時の『デアデビル』誌はミルグロム時代からライターを担当していたロジャー・マッケンジーが引き続き担当していたのですが、やがてオニールは「『デアデビル』誌が不人気なのって、このマッケンジーがあまり面白くないシナリオを書いてるからじゃね?」とかいうことに気づきます。
 他方オニールは、『デアデビル』のアーティストのフランク・ミラーから「『デアデビル』のバックアップ短編を書きたい」と直訴されます。

 とりあえず「ま、まずくとも俺が残業して書き直しゃいいか」的な軽い気分でミラーに書かせてみたオニールでしたが、ミラーから提出された脚本は、存外によい出来でした。

 そんなわけでミラーに脚本を書かせるのもアリだと考えたオニールは、まずはミラーとマッケンジーとの「共著」という形でコミックを送り出し(『デアデビル』第165、166号:1980/7, 1980/9 ※当時の『デアデビル』誌は人気がないので隔月刊だった)、その後『デアデビル』第168号から脚本・作画:フランク・ミラーという体制を始動させます。

 なお、ミラー本人が語ったところによると、実際には『デアデビル』第167号からミラーの脚本でスタートする予定だったらしいのですわ。
 ただ、この時ミラーが書いた脚本がドラッグをテーマにしたものだったために、コミックス・コード・オーソリティに拒否されまして。結局、デヴィッド・ミッチェリーニの書いた別の脚本にさし替わったんだとか(この回もアートはミラー)。
 ちなみにこの時ミラーが書いた脚本は、その後『デアデビル』第183、184号(1982/7, 1982/8 ※この頃は人気がアップしてたので月刊になってた)にてリメイクされてます。この時は無論、コミックス・コードは通っています。


 閑話休題。


 でー、この初の単独脚本となった第168号に、ミラーは女性暗殺者エレクトラを登場させまして、いわゆる「ミラーによる『デアデビル』黄金時代」な感じのソレが始まるわけですが。それ以降は、まぁ「みんな知ってるだろ?」って感じなんで省略します。知らない人は知ってる人に聞いてください(<ナゲヤリ)。

 ちなみに、『デアデビル』誌の脚本においてミラーが指向していたハードボイルド調の物語ってのは、ライターとしてのオニールの作風とも共通しておりまして。
 そんなわけで、ミラーの書く作品と波長があったオニールは、特に自分の意見を押しつけるでもなく、ミラーに自由に書かせたようです。
 後年のオニールのインタビューに曰く「我々は数多く打ち合わせをした。時には週2、3回も。私は提案し、促し、指摘し、拡張させたが、作品は彼らのものであり、私のものではない。私の仕事は彼らの内にあるビジョンに気づかせる手伝いだった」そうで。
 多分、ライターとして先輩なオニールが、まだ駆けだしのミラーに作劇のノウハウなどを伝授したりもしてたんじゃないかと思いますが。
 ……ちなみにミラーが『デアデビル』誌を降板した後、オニールは同誌の編集職を辞した上で『デアデビル』誌のライターに就任してます。自分でも書きたくなったんでしょうかね。


 ……と、まぁ、ミラーが『デアデビル』を担当した当時の同誌の環境は、こんな具合だったのですが。
 どうでしょ、「『自由』などどこにも存在しない場所」で、「意識的に作家としての自由を勝ち取った」ってなのとは、いささか具合が違うとはと思いませんでしょうか。

 個人的には、当時の『デアデビル』誌は、自由を保証されていた場であり、ミラーは作家としての居場所を得るために「アーティストになりたい」「脚本を書きたい」といった志願をする、ってな「戦い」はしたけど、その結果得られた居場所では、作家性を得るために「戦う」必要はなかったと思うのですが、どうでしょか。
 ていうかそもそも、ジム・シューターもデニス・オニールも、ミラーがその作家性を発揮する限りにおいて、彼に自由な場を与えてた訳で、「まず作家性ありき」だったと思うのですが、どうでしょか。


 さて一方でアラン・ムーアの場合。

 彼の場合は、すでにイギリスでデビューしてキャリアを積み、『マーヴェルマン』あたりでその作家性を遺憾なく発揮した上で、DCコミックス社のエグゼクティブのディック・ジョルダーノ、編集者のレン・ウェインらに乞われてアメリカでデビューをしたわけで。
 まぁ、この時点で作家性は保証されてたりしてた訳ですよ。ええ。

 しかも、彼の担当編集者のレン・ウェインは、ムーアに(アメリカデビュー作となる)『スワンプシング』を書かせる上で、「君が不都合だと感じるなら、これまでの設定はなかったことにして、新たな設定を作ればいい」と、事実上、『スワンプシング』の作品世界すべてをムーアに託してます。
 実に、全面的にムーアに作家性を発揮させようとした訳ですね。

 つか本来は、当時のムーアのような(アメリカでは)何ら実績のないライターに、自社のキャラクターを丸投げ、なんて真似はいくらベテラン編集者のウェインでもできないんですが。

 なぜ彼にそんなことができたかっつーと、まあ、1つには当時の『スワンプシング』が、やはり人気が最悪で、思い切った展開をする必要があった(逆にいえば、思い切り過ぎた展開をしても、割と許された)って背景があります。

 また一方で、編集者のウェインがスワンプシングというキャラクターの“オリジナルのクリエイター(ライター)”で、スワンプシングの扱いに関して暗黙の権限を持ってたから、というのもあります。

 そして何より編集者であるウェイン自身が、いい作品のためなら自分が過去に手がけた成果をブチ壊しても良しとするだけの度量のある人間だった、というのも大きいでしょう(普通、「俺の作ったキャラクターなんだから、俺の気に入らない作品はボツにする」とかいうことになります)。

 あと、ディック・ジョルダーノをはじめとする、当時のDCのエグゼクティブ陣(ジョルダーノ、ジャネット・カーン、ポール・レーヴィッツ)が、いずれも現場たたき上げの人間で(ジョルダーノはアーティスト兼編集者で、エグゼクティブをやりながらもインカーとして活躍。ジャネット・カーンは児童向け雑誌の編集者出身。ポール・レーヴィッツはDCのアシスタント・エディターからエグゼクティブに上り詰めた生え抜きで、1980年代後半まで月刊誌でライターも務める)、現場に理解があったことも大きく影響してるかと思います。特にジョルダーノはムーアを招聘して以降、常に彼のことを気にかけてたようで。

 そんな感じで、ムーアがライターに就任した当時の『スワンプシング』誌にしても、意識的に作家としての自由を勝ち取らずとも、普遍的に作家性を発揮することを保証されてた場所だったと思う次第でありますが。

 どうでしょか。


 あー、ちなみに上記のテキストは、「ミラー、ムーアの出世作である『デアデビル』『スワンプシング』は、別に不自由でも、作家性を獲得するために自覚的に戦わなければならない場でもなかったのではなかろうか」という点のみを指摘したいだけですので念のため。

 あくまでこの2例に限定した話ですので。「アメリカのヒーローものコミックスの現場すべてが自由に作家性を発揮させてくれる場である」とかいう訳ではありませんので。
「俺が考えたように書けば売れるんだからそうしろ」とかいえちゃう編集者、そういわれて作家性を発揮せずにいるライターなんざ、アメリカにだって普遍的にいます。

 あと、「ミラー、ムーアが己の自由に作品を書く上で戦ってない」とかいうことも言いたい訳ではありません。ただ、「戦っていた」事例として『デアデビル』『スワンプシング』をあげるのは不適切ではなかろうかと指摘したいだけです。
 つか、両者ともにコミックス・コードなんてぇ権力と幾度か戦ってましたし(ただ、毎月毎回コードと戦ってた訳じゃないし、戦うときは大概は編集者も一緒になって戦ってたことは忘れてはならんと思います)。


 以上、言いたいこと言ったので、オワル。



  
   
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コメント

*

 初めましてです。このエントリで取り上げられている文を書いている者ですが、細かいご指摘に冷や汗をかいているところです。
 ただ、僕がこの文を書いたときに無意識のうちに前提としてしまっていたことを説明させてください。映画批評やら文芸批評やらで「表現の自由」とか「作家主義」みたいな考えが出てくるとき、多くの場合は「創作者は自分のオリジナルな表現を完全に自由に展開してあたりまえ」ということが前提になってしまっているように思えます。しかし、「会社内でキャラのコンティニュイティを保たなければならない」とか「月刊二十ページ強に収めないとダメ」という商売上の制約があるだけで、作風は明確に変わるよね? ということが言いたかったわけです。例えば、ダシール・ハメットは今や大作家とみなされているけど、「ブラック・マスク」に三文小説を書き飛ばしていた頃は、「創作上の自由」うんぬんを言う以前に、「表現できる範囲」が制限されていたはず、というのと同じようなことです。
 僕がこの文を書いたとき、そういう事情を完全に無視してムーアやミラーの作品を「作家による独立した創作表現」として論じてしまう人たちが凄く嫌で、そういう言説を否定することを念頭において書いていました。
 しかし今になって読み返してみると、「「自由」などどこにも存在しない」とまで言っているのは確かに誇大表現ですね。ただ、締め切りやページ数のフォーマットが事前に完全に決められている創作表現と、一切制約の無い創作表現でとは必ず違いが出てくてくるはずだと思います。だから、「デアデヴィル」と「ダークナイト」、「スワンプシング」と「ウォッチメン」を比較する事自体は、やはり間違った選択だとは思えないのです。僕が考えていたのは、「「月刊二十数ページのコミック・ブックでの連載」は、本当に「『自由』などどこにも存在しない場所」なのか?」ということではなくて、「月刊二十数ページでなおかつ様々な会社からの制約付きでで書かなければいけない時点で、普通は当たり前の事だとみなされているような無制限の作家的自由はすでにない」ということです。
 ただ、正確に書こうとするならば、「自由のより少ない場所と、自由のより多い場所」と書くべきでした。この文を書いたときは「お前ごときがムーアを語るな!」「ミラーによって大人が読むに耐えないアメコミが駆逐された、とかほざくな!」という怒りによって頭に血が上っていたので、冷静でない表現になってしまっていたようです。
 余談になりますが、たけうちさんのサイトは、ブログの前の段階から読ませていただいています。たけうちさんは具体的な資料を逐一挙げていられるので、凄く勉強になります。僕がこの文を書いたときは、「アメコミをよく知らんのにアメコミについて知ったような口を利く人」を想定して書いていました。が、細かい部分では自分自身も厳密には粗雑で微妙な表現をしているかもな~という恐れもありました。たけうちさんにこのエントリが言及されるとは思ってもみませんでしたが、ご指摘は勉強になりました。

*

>Howard Hoaxさま
どうも、はじめまして。
わざわざこちらのブログにきていただきまして、コメントの方で諸々解説いただきまして、ありがとうございます。
こちらが『デアデビル』『スワンプシング』の個々の事象に囚われていて、「オンゴーイングシリーズ⇔『ウォッチメン』などのよい環境を提示されたリミテッドシリーズ」といった具合な引いた視点が抜け落ちていたことにも気付けました。

あと、個人的には、月刊のヒーローものコミックにおける「様々な会社からの制約」の中で、もっとも大きいものは「時間」ではないかと思います。どう足掻いても、1ヶ月に1本、作品を仕上げなければならないオンゴーイングシリーズに対して、準備の段階から相当な時間をかけられる、その手のリミテッド・シリーズは、作家にしてみればかなり「理想の場」なのでは、と。
(時間かけすぎで、いまや1年に1冊出るのかどうかも怪しくなってるミラーの『オールスター・バットマン』とかは、いかがなものかとは思いますが……)

それでは、毎度まとまりのないコメントおよびエントリですが、またなにかありましたらお気軽に書き込んでやってください。

*

ムーアのイギリス時代の仕事を見てると(まぁ、つっても、キャプテン・ブリテンくらいしか知らないけどな!)、ページ数的にはものすごく制約があり、内容的にはものすごく制約が緩い中で書いているんだな、とか思います。

*

>humanflyさん
どうも、ご指摘ありがとうございます。
イギリスのコミック界ってのもなかなか未知な分野なんで
勉強しようと思っとります。
そういや、『キャプテン・ブリテン』はあれは週刊での連載なんでしたっけ。
(そもそもイギリスの出版形態から学ぶ必要アリだな)

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