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●編集者、な日々。

2010.02.12 Fri

▼以下は、余談(司馬遼太郎風):

 その、前回のエントリで語った、ミラー、ムーアのケースでは、担当編集者やその上の人間に作家経験があり、作家サイドへ理解があったことが共通してるのですが。

 こう、「作家から編集者に転じる、あるいは編集者から作家に転じる人間が多い」「中には編集者をしながら(時には出版社の重役を務めながら)作家として作品を発表する人間もいる」といった具合な、作家と編集者とが割合シームレスな位置関係にあることは、アメリカのメインストリームのヒーローものコミックスの現場の特殊性(※日本の現場と比較しての)として、念頭におくべきやもしれない、と、思った。

 あと、マーベル・DCの大手出版社ですら、「コミックス専門の出版社」であり、必然的に最初からコミックの編集者になりたい(あわよくば作家にもなりたい)人材が集まってる点は、日本の「大手総合出版社のマンガ部門に配属されてるサラリーマン」な編集者と比べてみると面白いかもしれない、と思った。

 印象論だけど、「出版社・編集者・作家」という関係において、日本の編集者はより会社に近い立ち位置なのに対して、アメリカのヒーローもののコミックスの編集者は、作家により近いのではないかしら。

 いやまぁ、「そんなん個人個人で違うがな」って結論にしか、なりゃしないのですが。向こうにだってサラリーマン編集者はいるだろうし。
  
  
 あともいっこ。その、日本においては「編集者の視点からマンガ史を語る」って行為が、割と困難ですが。主に「資料が残されてない」という、至極単純な理由で。

(あと日本のマンガは作家個人に権利が帰属してることから、「作家本位」の史観が、呼吸をするように当たり前になってるのでは、とか考えてみたがどうだろか)

 一方で、アメリカにおいては、1950年代頃からコミックに作家と編集者のクレジットを入れることが普遍化してることで、ある程度「どの作品を、どの編集者が担当していたのか」の足跡が追えるようになっているですわ(1950年代以前のクレジットに関しても、メジャーどころは出版社に残されていた記録や、当時の担当者の持っていた資料などで、ある程度補完されてますし)。

 加えて、スタン・リーやジュリアス・シュワルツといった名編集者は伝記を出してますし、その他の「一時代が築かれた当時に最前線にいた」ようなクラスの編集者は、ファンジンやコミック情報誌、あるいはコミック評論誌で、繰り返しインタビューに答えてるし。

 あとコミック・コンベンションにパネリストとして招かれて、その発言の記録が、やはりファンジンやコミック情報誌(『アルター・エゴ』とか『バック・イシュー!』な)に掲載されて、資料として残されてたりします(っつーか、1960年代のコンベンションでのパネルの記録とか残してるの、凄いよ。オープンリールデッキかなんかで録音してたんだろうか、それとも速記してたんだろか)。

 ……また本題から逸れて長々と書いちまいましたが、要するに、アメリカのメインストリームのヒーローものコミックだと、編集者という視点からコミック史の流れを追うことができる程度に、資料が残ってるわけですわ。

(この傾向は日本とは逆に、出版社に作品の権利が帰属してることが諸々起因してるんじゃないかと思う)
 
  
 でー、ね。

 その、日本ではマンガ史を語る上で、「編集者の視点で語る」という行為が、割とナチュラルに抜け落ちがちになってるが故に、逆に、海外のコミックのことを日本で紹介する際にも、ナチュラルに編集者という視点が切り捨てられて、作家本位でコミック史が語られてないかしら、と、思った。

 まぁその、単体の作品を語るんだったら「作家本位」でも別にいいと思うけど、「大人向けコミックの発展・成熟の歴史」とか「1980年代半ばのDCコミックスの奇跡」とか「マンガ・スタイルの流入」みたいな「時代の流れ」を語る際、あるいは「ゴールデン・エイジ~モダン・エイジ」までの「歴史」なんてぇのを語る時などには、要所で「編集者史観」を取り入れれば理解しやすくなるケースもあると思うのですよ。

 ──つか、単体の作品を語る上でもね、編集者史観を入れることで、その背景に奥行きだの多面性だのが出せますよ。

 例えば「何ゆえブライアン・ボランドは『キリング・ジョーク』を描くのに2年も費やしたのか」ってコトを語る場合。

 第一の理由としては、そら「ボランドという作家が凝り性だったから」ですが、企画の初期に担当編集者がレン・ウェインからデニス・オニールに変わったこと、そしてこのオニールがアーティストに関しては放任主義だったこと(なにせ2年間で1回しか打ち合わせをしなかったらしい。ミラーとは週に2、3度打ち合わせてた癖に)も、割と大きな理由だと思うのですよ。

 と、まぁ、そんな感じで、結論としてはコミックブックの流れみたいなのを語りたくなった時には、資料系のページで、該当の時期の各誌の編集者も気にしてみると、意外なつながりが見えてくるかもしれないぜ、とかいう取って付けたような感じのソレでどうか。

(……そろそろ自分でも何を語りたいのか分からなくなってきたので、唐突にオワル。<もう少し、書きたいことを頭の中でまとめてから書き出せよ!)
  
  
 こう、1990年代の邦訳コミックスが隆盛していた当時の日本におけるコミック史の紹介のされ方が、割合に編集者という視点が抜け落ちていて。それ故、「出版社・作家」という二極化した関係で語られてしまい、結果、例えばイメージ・コミックス創立のエピソードが「作家が作家性を獲得するための出版社との戦い」という聖戦・美談として(日本人って権力に立ち向かうプロフェッショナルって構図が好きだし)紹介されていた……とかいうことも考えたけど、まとまらないので書き捨てる。

(ていうか、「編集者という視点」とかどうでもよくなって、単にマクファーレンへの長々とした誹謗中傷になったので消した)  
  
  
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タグ:編集者

コメント

*

前回&今回のエントリを読ませていただいて、たけうちさんすごい!まるで専門家みたいって思っちゃいました。
自分はコミックが出来上がるまでの背景とかまったく知らなかったので勉強になります。編集者さんもいろんな人がいるんですね。
また、作家の制約のことなんて考えもしませんでした。この作品はおもしろいなとか、つまらないなあとか思って読んでるだけです。

話は変わりますが、先日ブリスター原宿の移転セールに行ってきました。結構混んでいましたよ。残念ながら探していたDEADPOOLはありませんでした。半額ってなっているので勢い余ってSuper GirlのTPBを買ってしまいました。それも中途半端な巻を。
SuperGirlって面白いですか?面白ければ最初から買おうと思います。

あと地元の古本屋にカオスコミックのリーフがいくつかあったのでチラ見したのですが、カオスコミックの作品って、なんか全部似てる雰囲気ですね。

*

>kikkaさん
 丁寧な感想、ありがとうございます。
 まぁ、プロ野球ファンがだんだんと球団の経営なんかに興味を持つようなモンで、それなりに長くコミックを読んでるんで、周囲のことにもちょいと気になりだした程度です。
 変にジジ臭く、裏のことまで気にするよりも、できあがったコミックだけで作品を判断するのが健全ちゃ健全ですよ。

 現在の『スーパーガール』誌は、個人的な感想で言えば創刊からの3年間(だいたい33号くらいまで)は、最初のライターであるジェフ・ロェブが張った、変な伏線(スーパーガールは実はスーパーマンを殺しに来たんだ!)に引きずられて延々と迷走してた感がありますね。
 オイラ個人は、「前号までと言ってたことが違うじゃねぇか!」な、グダグダな展開を楽しんでましたが、さすがに人に勧める気にはなれません……。

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