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●最近のブラックグローブとか。

2012.05.10 Thu

▼前書き:

「月1回は更新する」「ブログ上段に“30日間更新しないと出る広告”を出さない」が秘かな目標のこのブログですが。

 気づけば上段に広告が出やがってたので、イソイソと更新するモノなり。

 でー、こう、いつもの様な雑記をまとめてたら、雑記のネタの1つに過ぎなかった「邦訳版『バットマン:ブラックグローブ』掲載のテキストに対する批判的なテキスト」が長くなったので、これを独立したエントリにすることとする。

 ……こう、かつての「クオリティや訳の好き嫌いをいえるほどに出てない」状況下ならばいざ知らず、潤沢に邦訳アメリカン・コミックスがリリースされている昨今に置いては、我々読者も、個々の本の内容・クオリティの是非についても論議をしていける段階に来ているのではないだろうか? ……とか書くと、以降に続くテキストが「正統な批評」にすり替わりませんか。どうですか(<投げやり)。

 そんなわけで。


▼最近のブラックグローブとか:

 邦訳版『バットマン:ブラックグローブ』を読んだ。

 モリソンのあの時期のバットマンの中でも、オイラ的に買えてなかったあたりなので、日本語で読めるのは楽しいし楽だし、略して楽楽だなぁ、と思った。

 ヒーロークラブの話とか、モリソン的にはきちんと時系列とかトリックとか考えてるんだろうけど、その辺きちんと説明せずにすっ飛ばして結果だけ描いてるあのスピーディーさが良いなぁ、と。


 で、巻末に翻訳者の人が「コメンタリー」と題して1ページ2段組で延々と書いてるテキストが、個人的に今ひとつな文章で、「これはコメンタリー(注釈・論評)ではなくインプレッション(感想)であるなぁ」という感慨を抱いた。

 ただ「まいうー」「まいうー」と連発してるグルメレポーターじゃあるまいし、「驚くほど豊かな想像力」「想像力の限界に挑戦」とかいう、実感に乏しい形容詞で1950年代の「バットマン」諸作品を持ち上げられても、あんまりこっちの心に響かないというか。

 そうした翻訳者の「感想」めいた、無邪気な美辞麗句を並べただけのテキストを載せるくらいなら、きちんとしたライターに「解説」を書いてもらった方が、単行本としてのクオリティは上がるし、読者にとって1950年代のバットマンの古典に対する「重み」も増すのではないかなぁ、と思った。


 個人的に、このテキストで一番気になったのが、「1950年代の大衆文化でSFが流行していた」理由としてあげられてる、「おそらくはウェルズが撒いたSFという種が、後世の作家によって大切に育てられ、50年代という戦後の開放感のなかで大きく花開いたのだろう」って箇所ですが。

 ……その、正直、この説明、視点がマクロすぎて、なんでも当てはまりますよね。

 何でも当てはまるが故に、何ら説明になってないですよね。この文。

 例えば、「1930年代のアメリカでSFがゴールデン・エイジを迎えた理由」。これも、「おそらくはウェルズが撒いたSFという種が、後世の作家によって大切に育てられ、大きく花開いたのだろう」といえるじゃないですか。無論、説明になってないですが。

(てか、このテキスト書いた人にとって、1930年代のSF黄金時代は、「大きく花開いて」ないんですかね)

 あるいは、ニューウェーブSFやサイバーパンク・ブームといった時代ごとの流行も、「おそらくはウェルズが撒いたSFという種が、後世の作家によって大切に育てられ、大きく花開いたのだろう」っていえますよね。

 ヤマトとかガンダムとかエヴァンゲリオンのブームも「おそらくはウェルズが撒いたSFという種が、後世の作家によって大切に育てられ、大きく花開いたのだろう」。

 昨今のSFっぽいラノベが続々アニメ化されるのも「おそらくはウェルズが撒いたSFという種が、後世の作家によって大切に育てられ、大きく花開いたのだろう」と。


 というか、これはオイラ個人の憶測ではありますが、このテキスト書いてる方は、多分、1950年代のDCのSFブームを語る上で割と外せない要素である、

・戦前~1950年代に至るまでのアメリカSFの流れ

・1940年代~1950年代のナショナル・コミックス(DCコミックス)社の歴史

 の2点をあんまり調べていないと思うのですよ。

 ……そのね、1950年代のDCでのSFなコミックスのブームって、とどのつまりは、当時の同社の編集者であるモート・ワイジンガーとジャック・シフ、それにジュリアス・シュワルツの3人の影響が大じゃないですか。

 ご存じない方に説明しますと、この3人は、当時のDCの有力な編集者であると同時に、戦前(1930~40年代前半)のアメリカSF界において重要な役割を果たしていた人物なのですよ。

 シュワルツはH.P.ラヴクラフトやエドモンド・ハミルトンといったSF作家の代理人をしていたし、シフはパルプ雑誌出版社スタンダード・パブリケーションズの編集者として辣腕を振るってた人物で。ワイジンガーは、そのシフに雇われて「スタートリング・ストーリーズ」や「ワンダー・ストーリーズ」の編集長を務め、ハミルトンと共に『キャプテン・フューチャー』を生みだしてます。

 あとハミルトンやアルフレッド・ベスター、それにオットー・バインダー(イアンド・バインダー)といったSF作家が、1940年代から1950年代にかけてDCでコミックのライターをしてたのは、この3人とのツテがあったからなわけで、いわばこの3人が、当時のSF業界とコミック業界の橋渡しをしていたんですよ。

 そんなわけで、1950年代のSF系コミックスの小ブームは、「1930年代からのSF黄金時代」と、その流れの中心にいた編集者らが、「1940年代のコミック黄金時代」にコミック業界に転身したという流れを踏まえて語るのが至極当然なのですね。

 だのに、このテキストでは、それらの事象には全く触れず、「19世紀のH.G.ウェルズの撒いた種が、1950年代に花開いた」ですよ。

 これ……やっぱり、当時のSF/コミックス界隈について、あんまり調べずに書いてますよね?



追記:以降の記述に関しては、くだんのテキストを書かれた高木亮氏から「ただ、文章の後半が、会ったこともない僕の性格を想像して、それに基づいて攻撃しているのは残念ですが」との指摘がありまして。
 筆者(たけうち)当人も振り返ってみるに「その指摘はもっともであり、カサにかかって勝手な文章を書いてしまっている」と、同意・反省をするものであります。
 そういった訳で、以降の文章ですが、上記のような指摘が成されていて、筆者もそれについて自覚しているのですが、今から文章の改訂や削除を加えることは余分な混乱を招くのでそのままにしている、ということを踏まえて読んで頂ければ幸いです。




 で、ね。

 オイラが思うに、この人は、書くテキストの起承転結や「自分のいいたいこと」をキチンと設計してから文章書くタイプで、余計な枝葉とか寄り道を嫌うのだろうな、と。

 で、予定の起承転結を書ききった上で、文字に余裕があったら、「1950年代の有名なSFのタイトル」とかの例示を盛り込むなりして、あくまで既定の起承転結はブラさないタイプ。

 ……多分、この人、文字数が今の倍あっても、もしくは半分でも、内容の濃さや・構成的には今のと何ら変わりないテキストを挙げてくると思う(むしろ、文字数を今の半分くらいにした方が、密度のあるいい文章になるかも)。

 いや、そういう書き方のスタイル自体は、悪いことではないのね。この手法だと、内容がブレない文章が書けるし。多分、このテキスト書いてる人って、そういう内容のブレとかを嫌う生真面目な性格だと思うし。

 ただ、今回みたいに「自分のいいたいこと」の根本の理屈が「おそらくはウェルズが(略)だろう」みたいな、あまりよく調べず、裏付けに乏しいものだった場合、本文が長くなればなるほど、内容は空虚な文章になるのね。

 その辺の中身の虚ろさが、今回このテキストに対してオイラの感じた「今ひとつ」な感じの原因であるな、と。


 それとこの人、生真面目に「自分のいいたいこと」「伝えたいこと」を読者に伝えることに一生懸命で、読者がその伝えられたことを「面白がるか」という根本的なトコは、割と二の次になってると、思う。

 こと邦訳アメリカン・コミックスのテキストにおいては、石川裕人氏という、きちんと裏付けのある知識に基づいた上で、サービス精神にあふれたテキストを書ける人が「基準」として在るのが、まぁ、ある意味で不幸なことなのかも知れませんが。


 ――今気づいたけど、「日本人によるアメリカン・コミックスについて語るテキスト」の批評において、石川裕人氏を引き合いに出すのは、割と卑怯ですね。このカードを切ってる限り、相手の反抗をかなりく封じられるという意味で。

 以上。
  
  
 ――あとこのテキスト書きながら、もう1個、「今ひとつ」と感じた理由に気づいたのですが。……その、非常にミもフタもないことなのですが、この人、毎回テキストの構成が同じなんですよね。

 こう、1段落目は、「人間から想像力を奪ったら何が残るのだろう」みたいな、一見、コミックスと関係ない語りかけとかで。

 その後、「本書に収録されている作品群はおおむね1950年代に発表されたものである」的なコミックの説明が続いて。

 で、ひととおり説明を書き連ねたら、「グラント・モリソンという作家が彼らのアイデアを加工して、バットマンの世界を新たな次元へと高めた、すごい」的な、「感想」でまとめに入って。

 その際に、1段落目で言及した「想像力」というキーワードを繰り返すことで、それらしいシメにするという、まあ毎度そんなスタイル。

 その、冒頭に本題とはズレてるっぽい話をしつつ、文章のシメで冒頭に語ったことに繋げるってスタイルは、割とこう、読者に強い印象を残せるし、書いてる方も「俺って技巧派だぜ!」っていう自己満足に浸れる(<ヲイ)、お得な手法なんですが。

 ――ただ、邦訳アメリカン・コミックスがコンスタントに刊行されている昨今、この方のテキストを読む機会も増えてるわけで。でー、どのテキストも同じスタイルで書かれていると、さすがに新鮮味はなくなるよね、と。


 以上(2回目)。
  
  
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コメント

*

個人的には、高木氏の解説とか全体的な訳は正直イマイチのクオリティだと思っています。
それでも柳亨英氏よりは大分ましですが。
こういうのは個人の資質もあるけれど、編集側のディレクションの問題もあると思います。
解説系同人誌によくある推敲もしてないようなダラダラした文章や機械翻訳レベルの奴は、もっと校正が入ってしかるべきなのに商業誌で出てしまうのが不思議です。

*

>通りすがりさん
貴重なご意見ありがとうございました。
……そういや、自分はあまり訳文のテイストには注意してないですね。
最近の若者言葉が使われていると、ちょいと気になる程度ですか。

編集側のディレクションについては、こちらとしては想像しかできませんので
辞典的な書籍は、きちんとした校正はあらまほしきものですね、とかいう感想程度で。

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